【旭日旗】 勝利後がさらに重要だ~日本の観艦式不参加、祝うのはまだ早い。これまで日本は報復してきた

110pt   2018-10-11 21:35
ます速ch

1: 蚯蚓φ ★ 2018/10/11(木) 16:09:31.77 ID:CAP_USER 鳴梁海戦と青山里(チョサンリ)戦闘、安重根義士の偉業はみな私たち国民に日本の侵略や圧制に抵抗して達成した勝利の記憶だ。壬辰倭乱を起こして破竹の勢いで朝鮮全域を蹂躙した日本軍に決定的「一発」を飛ばした李舜臣将軍の鳴梁海戦の話に国民は胸をなで下ろす。

歴史に仮定はないとしてもすべて「李舜臣将軍がいなかったら今の私、今の我が国はなかっただろう」という仮定を一回ぐらいしてみたことがあるだろう。青山里戦闘はもしかしたら壬辰倭乱より大きな国難といえる庚戌国辱(1910年)で、朝鮮が日本に国権を奪われた中、この土地の民衆が憤然と起って義兵として日本正規軍と戦い大勝をおさめた戦闘だ。国権喪失直前の1909年、中国ハルビン駅で起きた安重根義士の偉業が私たち国民に与えた響きも大きかった。

しかし、このような英雄的抵抗の後、日本の反撃も侮れなかった。時には私たちが得たもの以上、私たちは日本に痛恨の報復をされた。

鳴梁海戦後、倭軍は全南(チョンナム)霊光(ヨングァン)、務安(ムアン)、海南(ヘナム)など南部地域の様々な村を灰にした。忠南(チュンナム)、牙山(アサン)の李舜臣(イ・スンシン)本家もこの時廃墟になった。倭軍に対抗して本家を守っていたイ・スンシンの三番目の息子(当時21才)が命を落としたのもこの時であった。その後、息子の死のニュースを伝え聞いた忠武公(イ・スンシン)は号泣した後、鼻血を一升も流したという。姜コウの「看羊録」によれば当時、全南務安の倭船に乗船した人員の過半数が朝鮮人で、周辺に積もった死体が山を成し、泣き声が絶えなかったという。地獄に他ならなかった。

青山里戦闘後には間島(カンド)と沿海州一帯で日本軍の討伐作戦が始まり、残酷な間島虐殺事件に帰結された。日本軍は3~4カ月の間、朝鮮人の村を包囲してあくらつな虐殺を行った。民家を燃やし家畜を略奪した後、村全体を灰にした。集計された朝鮮人犠牲者だけで3400人余りに達する。

安重根義士の偉業の後は安義士の遺族たちが弾圧と監視の中で言葉にできない苦難に会ったという。また、日本は安義士の偉業の次の年、これ見よがしに朝鮮の国権を侵奪した。

来る14日まで済州(チェジュ)で海軍観艦式が開かれる。観艦式参加が予定された日本海上自衛隊艦艇が部隊旗の旭日旗を掲揚する事実が知られながら「第二次世界大戦の時の戦犯旗を国家的行事に容認できない」という国民的怒りが煮えたぎった。

わが政府が日本側に旭日旗掲揚自制を要請し、有事の際の座乗艦を独島艦に変更する可能性まで議論されるや日本自衛隊が自ら不参加を決めた。

国民の多数はわが政府の堂々たる対応に拍手を送り、日本の国際観艦式不参加をもう一つの「勝利」と脳裏に刻むところだ。しかし、歴史は「祝うには早い」と助言する。勝利後がさらに重要な理由だ。

ちょうど東北アジア情勢は平和と繁栄の時代に向かって徐々に進んでいる。国家間の感情戦がどちらか一方の永遠の勝利で終わる場合は多くない。かえってふくらんだ葛藤をどのように縫い合わせるのか知恵が切実に要求される時だ。

キム・スハン/政治セクション政治チーム次長
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